SERIES
Food Experience Story
2025.09.05. | 

[Vol.2]偶然の出会いからはじまった 『WASARA』の原点

料理を美しく引き立たせ、豊かであたたかい空気を創り出したいという想いと、日本の美意識や価値観を原点に生まれた“紙の器”「WASARA」。そんな「WASARA」をプロデュースしたのがファッション業界の最前線で活躍してきた田辺三千代(たなべ・みちよ)さんです。

Vol.1では、お祖母様から受け継いだ丁寧な暮らしに根ざした精神、そしてパリ遊学時代に出会い培われてきた、自由で洗練された価値観と“かっこ良さ”の本質。こうした田辺さんのルーツをたどりながら、その美意識の源泉に触れました。

Vol.2となる今回はパリから帰国後、田辺さんがファッションの世界でどのように活躍し、「WASARA」へと向かう一歩をどのように踏み出していったのかを紐解いていきます。

とんでもない人!?菊池武夫さんとのお仕事

−−ご経歴を拝見すると、いろんな価値観に触れたパリから帰国されて数年後には、メンズデザイナーの菊池武夫さんが手がける「TAKEO KIKUCHI」ブランドの広報責任者を務められるんですよね?

田辺さん:そうですね。「TAKEO KIKUCHI」ブランドの広報全般の責任者としてチーフプレスに就任させていただき、タケ先生のもとで働くことになりました。タケ先生とは、先程お話した東京のクラブで10代の頃に出会い、パリからの帰国後もよく遊んでいたのですが、ある日、突然彼が手がけるブランド「BIGI」に来ないかとお誘いいただいたんです。

 

−−田辺さんは、「TAKEO KIKUCHI」ブランドの洋服が好きだとおっしゃっていましたよね!実際にお仕事のお誘いを受けた時はどう感じましたか?

田辺さん:それはもう、本当に嬉しかったです!まさかお仕事を一緒にさせていただくとは思っていませんでしたから!

ところが私がタケ先生のところへ就職しようとして「BIGI」に行った時には、タケ先生ご本人は「ワールド」という別の会社に移籍しちゃってたんです!まさかそんなことが起こるなんて思わなかったので、本当に驚きましたよ…

 

−−それは…入社早々、なかなか驚くような経験をされましたね。

田辺さん:そうですね。でも、タケ先生はいらっしゃいませんでしたが、そのまま「BIGI」で1年間お仕事をさせていただきました。この1年間の経験は、私にとって本当に勉強になりましたね。

でもそんなある日、雑誌のパーティーに出かけたら、そこにタケ先生がいらっしゃったんです。
その時「BIGIで働いて1年経ったし、そろそろ先生のところに行ってあげるわ」って冗談混じりにタケ先生に言ってみたんですよ。そしたら、何もなかったかのように「そうだね。」って、おっしゃったんです(笑)。

 

−−それはまた面白い展開ですね(笑)!

田辺さん:驚くでしょ(笑)?もうそれはそれで私も驚きましたね。
それをキッカケに私は「TAKEO KIKUCHI」に入ることになりました。
実際にタケ先生のところに行ってみると、本当にもう規格外というか、予想できないことが多くて、クリエイターとはこういう人なのかと思い知らされましたね(笑)。

 

−−でも、田辺さんはどんな状況でも、前向きに経験を吸収されてこられたということが伝わってきます。そんな菊池さんとご一緒にお仕事をされた中で、印象的だったエピソードがあれば教えていただけますか?

田辺さん:そうですね。本当に色々なことがありましたが、ご自身のブランドのファッションショーでプレス向けのイベント中に“いなくなる”というエピソードがありました。

たぶんクリエイターは、何かの拍子に今起こっている現場の状況を見て、血の気が引いて、その場にいられなくなる瞬間があるんじゃないかと思うんですけど…先生はしょっちゅういなくなるんです(笑)。

 

−−えっ!いなくなる!?そのお話しをぜひ詳しく教えていただけますか?

田辺さん:私が「TAKEO KIKUCHI」に入って最初のコレクションは、クラブ感をイメージしたテーマだったので、当時赤坂にあった馴染みのディスコ「ビブロス」の地下にある「ムゲン」で行うことになったんです。

一般的なファッションショーでは、20名程度しかモデルを起用しないんですが、タケ先生の場合はその3倍から、多いと10倍ぐらいのモデルを起用するんです。
モデルの人数に対して、会場は狭いけれど、タケ先生がやりたいっておっしゃったからには、どうにか形にする方法はないかと考えました。

 

−−それはヒリヒリしますね!実際に実現できたんですか??

田辺さん:はい、実現しましたよ。
実際には、比較的そんなに広くない会場だったので、3回に分けてショーを開催し、1回目はメディアだけを招待したんです。
ところがメディアの人は別に“タケ先生のファンだから来場した”というわけでは無く、取材に来ているだけなので、みんな静かに見ていたんですよね。

すると、来場しているメディアの方々の静かなリアクションを見て、彼は「全く盛り上がっていない」と思い込んで、血の気が引いてしまったんでしょうね…突然、会場からいなくなってしまったんです!

「その後には、2回目のショーも控えているのに、先生どこにいるの?」って全員で探しまわっていたんですが見つからずで….
その時は本当に、この先どうなるんだろう??ってすごく焦りました。

 

−−聞いているだけでもヒヤヒヤしますね。実際、菊池さんは会場へ戻ってきてくれたんですか?

田辺さん:はい、最後の3回目のショーのときに渋々戻ってきました…
人しれず家に帰ってしまっていたようです。

でもそのショーは、ものすごくかっこよかったんですよ!ロンドンの有名なスタイリスト、レイ・ペトリがスタイリングを担当して、モデルたちもロンドンから招いていたんです。それでも、1回目のショーでのメディアの方々の反応を見て、自分の予想と反応が違ったんでしょうね。それで「自分がやったことは間違いだった」と思ってしまったようなんです。

 

−−戻ってこられた時はどんな様子だったんですか?

田辺さん:特別な様子でも謝るでもなく、普通にふらっと帰ってきました(笑)。でもその後何十年も一緒にいる中でタケ先生とお話ししていると、「あの時のショーが一番良かった」って言うんですよ(笑)!

もう大変な思いをしながら担当していた私からすると、その発言を聞いて「何をおっしゃってるの?」と、また驚かされた感じです(笑)。

 

大きなプレッシャーと想定外の連続が、私を強くした

−−面白い方ですね。でも、クリエイターは人の想像できないようなことをするから、かっこいいと人が思う魅力的なものを、生み出したり、創造するのかもしれませんね。

田辺さん:そうですね。この時のように予想ができないようなことは、わりと頻繁に起こりましたね。

 

−−そんな予想もつかないようなクリエイターさんを前に、振り回されるという感覚や、田辺さんご自身はネガティブな感情になったりしませんでしたか?

田辺さん:それはないですね!タケ先生の服が好きだから。タケ先生の作る服は、ものすごく繊細で、バランスがいいんですよ。私はずっと服を見てきているので、何が良くて何がダメかは分かるんです。

特にメンズでは、線1本、パターンひとつ、ミリ単位までこだわり抜かれているわけです。そういう服を作るためには、優秀なパタンナーや縫製スタッフなど、すべてがプロフェッショナルでなければなりません。

そういう服をずっと私は見てきたから、タケ先生の服が好きだし、そういうこだわりは尊敬に値するんです。とんでもなく、本当にわがまま放題言ってくれるんだけど、それがクリエーターというものだと私は思ってます。

だからこそ私のプライドをかけてでも、何とかしてあげたいと思うし、私はそういう人生を歩んできました。こうして当時を振り返って見ると、本当に今は平和だなと思います(笑)。

 

−−そうなんですね!田辺さんが制作に関わった書籍『菊池武夫の本』を読ませて頂きました。その書籍の中にもありましたが、菊池さんは業界を超えて、様々な方々とお仕事をされていますよね。その中で菊池さんは、関わって来られた一人ひとりとのコミュニケーションをとても大切にされている印象を持ちました。また、知人の紹介から仕事につながることも多いですよね。

田辺さん:そうですね。みんなつながっていますから、下手なことはできません。でもそのつながりに助けられることもあるし、自分が助けてあげることもできる。それが自分の成長につながると思います。

今の私があるのも、タケ先生と出会って、ものすごいプレッシャーと想像もできないような大どんでん返しを経験してきたからです。もう怖いものなんてありません(笑)。

 

−−プロフェッショナルな現場で鍛えられたというのも、もちろんですが、田辺さんご自身の誠実さや他を想う気持ちの強さも感じるお話しでした。

 

ご縁がつながり“食”の世界へ

−−そんなファッション業界で活躍されていた田辺さんが、「WASARA」の発案プロデューサーに至るまでに携わった、食に関する仕事について改めて教えていただけますか?

田辺さん:そうですね、私が「食」というジャンルの世界に足を踏み入れたのは、1999年に西湖でオープンした「CAFÉ M」というカフェの運営や、2002年の立ち上げにも携わった隠れ家的な“都会のラウンジ”として話題を呼んだ表参道のカフェ「モントーク」(現・V.A)などがありますね。この「CAFÉ M」からつながったご縁や思い出もたくさんあるんです。

 

ファミレスのメニュー開発に発展!その出会いとは?

−−きっとそのままでは終わらないと想像していました(笑)!ぜひ教えてください!

田辺さん:私が山梨県の西湖で「CAFÉ M」の運営を始めたころ、山中湖の友人宅でパーティーにお邪魔し、そこで出会ったのが、セブン&アイ・ホールディングスの名誉会長をされていた伊藤会長ご夫妻です。

その時、伊藤名誉会長から「君は何やっているの?」と質問をされ、私は西湖でお店をやっているとお話すると、伊藤名誉会長が興味を持ってくださったんです。そして、後日すぐお店へ来てくださいました。

それをキッカケに、その後も懇意にしていただいたのですが、ある時「デニーズ」の限定メニューの開発をお願いできないかというお話しをいただいたんです。
もちろんそのお話しをお受けして、私のイメージをうちのカフェのシェフに伝えて開発に取り組んだんですよ。

 

−−縁が縁を呼んで、「デニーズ」のメニュー開発まで…思いもよらない展開ですね!

 

「モントーク」も突然に

田辺さん:本当に人のご縁って、どこでどう繋がるのか、分からないものですよね。アパレル事業などをメインに展開する株式会社ジュンが運営していたカフェ「モントーク」の立ち上げと運営サポートという形で携わったのも、お店(CAFÉ M)をやっていた時の繋がりから発展したんですよ。

 

−−そうだったんですね!

田辺さん:そうなんです。当時、現在㈱ジュンの社長をされている佐々木進さんを知人から紹介されたんです。
すると佐々木さんから「田辺さんのことは存じ上げてます。うちに来ませんか?」って急に言われたんです。

 

−−それは、また突然ですね!!

田辺さん:びっくりしましたよ、そんな気は全くなかったですから!

彼からは、PRの統括を依頼されたのですが、私は当時、ジュンという会社には全く興味がなかったんです。でも、ふと考えたときにせっかく声をかけてくださっているのに、そんなことを言っている私は“小さい人間だな”と思ったんですよね。そこで一度会社を見てからちゃんと考えよう思って訪ねてみることにしたんです。

そして、いざ会社にお邪魔してみると、なんとプレスの子たちがみんな、私を待っていたんですよ!

 

−−これはもはや、想像をこえた展開ですね(笑)!

田辺さん:そう思いますよね?だって私はまだ“ジュンに入る”ってお返事をしていない状況での訪問でしたからね(笑)!

でも、訪問してみて「この会社は先を見据えている」と感じて、ここは私が思っているかつてのジュンとは全く違った会社になっているということが理解できて、ジュンのPR室顧問を引き受けることにしました。

そして、西湖のカフェをやっていた経験もあったので、「モントーク」の立ち上げとハンドリングにも関わってほしいと言われたんです。

 

−−なるほど!PR室顧問という立場のお話しはあったものの、「モントーク」のお話しはその後だったんですね!

 

WASARA誕生の舞台裏。器に込めた時代感覚とエコ意識

−−ここまで、ファッション業界に身を置いていた田辺さんが、西湖でのカフェ運営を機に、アパレル業界へ戻り、今度は飲食部門に携わるというお話しを伺ってきました。

ここからは、いよいよ「WASARA」誕生の舞台裏についてお伺いしたいと思います!「WASARA」のWEBページを拝見すると2005年に、紙やプラスチック製容器の老舗メーカーである伊藤景パック産業の社長、伊藤景一郎さんから新商品のアイデアを求められたことがキッカケだそうですね。

田辺さん:そうですね。こちらも先ほどお話しした、セブン&アイ・ホールディングスの伊藤名誉会長の命令で、伊藤景パック産業の伊藤社長にお会いした時に、お題を頂戴し、提案したのが「WASARA」でした。

 

−−そうだったんですね!それまで飲食業界でお仕事をされてきた中で、「WASARA」につながるような印象的な経験はありましたか?

田辺さん:それはやはり「モントーク」での経験が印象的ですね。当時、モントークではとにかくパーティー三昧で、私は毎日パーティーばかりを仕切っていたんです。そこで、「WASARA」のようなものが必要だということを思わせる、飲食店の裏側の仕事の過酷さを目の当たりにしたんです。

 

−−それはどんな出来事だったのでしょうか?

田辺さん:「モントーク」でのパーティーでは、スタッフが一生懸命すごい量のレンタルの汚れた陶器のお皿を次々と洗浄し、拭いては元の状態に戻して、レンタル会社へ返却しなければなりませんでした。そういった作業はスタッフたちにとってもかなりの重労働だと見てて思ったんです。

陶器のお皿って重たいし、洗って返すということはお水も汚染しますよね。その時にふと「エコで素敵な料理が映える紙皿があればいいのに」と思ったんです。

 

−−実際の現場の過酷さを目の当たりにしているからこそ、本質的な思いが湧き出たというか、まさにその気づきが、WASARAのアイデアへとつながったのですね!

田辺さん:そうですね。ファッションでも住まいでも、何でも、素敵にしたいという想いは同じだと思います。パーティーならなおさらで、演出をするならチープな紙皿よりも陶器の方が場に相応しいと考えるのは自然なことだと思います。

でも先ほどのように過酷な労働状況のことを考えると紙皿を使って捨ててしまえばいいとも言えますが、リサイクルしにくく、使い勝手が特別良いわけでもない。そしてビジュアルもどれも同じに見えるわけです。

かつて私は、ヨーロッパやアメリカで撮影に行く機会も多かったのですが、海外でも、普通の紙皿がよく使われていました。そういう紙皿で提供されると全然料理が美味しそうに見えないし、何となく美味しく感じなかったんですよ。

そして、ある時は、ガーデンパーティーで、素敵なスーツを着た男性がチープな紙皿に食べ物を載せているのを見て、「その器がその人の品格まで落としてしまい、かっこ悪く見えてしまう!」と感じたんです。そうした経験も実はWASARAのヒントになっているんです。

 

−−ご自身でさまざまな現場を見てきたからこその気づきですね!開発を進める中で大変なことも苦労したことも多かったと思いますが、いかがですか?

田辺さん:私はまず紙皿はただの容器ではなく、デザイン性や機能性を踏まえた紙の器をつくりたいという想いを伝えていきましたが、伊藤景パック産業の方々にはなかなかそこの部分が伝わらず本当に大変でした!

でも理解していただけるように、まずは最新のトレンドや目指すべき未来像について、そしてお皿にこだわるアーティストたちの紹介などを交えながら、毎月のようにプレゼンをし続けましたが、最初は、やはりなかなかその想いに共感できず難しかったですね。

またデザインや機能性にこだわれば当然コストも高くなるわけです。これまで紙皿は、1枚10円もしないものという業界の常識の中で作ってきた方々にとっては、急にこんな話をされても戸惑うのは当然ですよね。

 

−−理解を得るまでの苦労を相当されたんですね。その時はどのような内容でプレゼンをされたのですか?

田辺さん:当時、「BOBO(ブルジョア・ボヘミアン)」という言葉がありました。ブルジョアだけど環境にも配慮する人たちを指す言葉で、私はこの考えにすごく心打たれたんです。まだ私の周りでは、地球環境のことを考えて行動している人がいませんでした。

しかも当時、海外では日本ブームが起きていました。
私もよくロンドンに行っていたのですが、「ハーヴェイ・ニコルズ」という高級デパートの最上階にあったレストランが、ある日突然回転寿司店に変わっていて、日本の文化や商品が受け入れられていると実感しました。その時、これからは日本発のものが海外でも受け入れられると確信しました。

こうした内容を企画書にまとめ、粘り強くプレゼンを続けたんです。

 

緒方慎一郎さんとの偶然の出会い。無駄なものはひとつもない

−−田辺さんが培ってこられた感性が、WASARAの提案にしっかりと活かされていて、とても説得力を感じますね。

田辺さん:それでも簡単には伝わりませんでしたね….。

でもどうすれば伝わるのか悩んでいたある日、建築、インテリア、プロダクト、グラフィックなど多岐に渡るデザインやディレクションをされている緒方慎一郎氏が手がけているHIGASHI-YAMA Tokyoによく行っていて新しく和菓子屋をオープンされると伺っていましたお店を訪ねる機会があったんです。

 

−−後にWASARAのクリエイティブディレクターとして参加される、緒方慎一郎さんですね。

田辺さん:そうです。私が伺ったのは「ori HIGASHIYA」という西麻布の和菓子屋さんだったのですが、そのパッケージが本当に素敵でした!
「このことを伝えても伝わらないかもしれない、百聞は一見に如かず」と思って、そのパッケージ入りお菓子を伊藤景パック産業に持って行って見せようと思って訪問したんです。

すると、たまたま緒方さんがそこにいらしたんです!当時、私はHIGASHI-YAMA Tokyoの顧客だったのですが、その場で緒方さんに「私と仕事しない?」と、デザインを依頼してみたところ、「はい、やります」と即答してくださったんですよ。そんな風に人のつながりを経て、そこからWASARAの制作が本格的に始まりました。

 

−−その時点で、すでに田辺さんの中ではWASARAのコンセプトが明確になっていたのですか?

田辺さん:これからの時代は、地球環境のことを考えて、「土に還る素材」であることが必須だと考えていました。そんな器を、緒方さんの手でデザインしてもらえたら、きっと素敵なものになると確信していましたね!

 

−−まさにWASARAが誕生してから、その確信の答え合わせができていますね。今でこそサスティナブルという言葉を当たり前のように耳にしますが、2005年当時では、「土に還る」を掲げた器というのは、とても斬新な発想だったのではないでしょうか?

田辺さん:そうかもしれませんね。でも、私は小さい頃からそういう環境で育っていますから、自然に還すという考え方はごく当たり前のことなんです。

昭和の頃は、買い物には買い物カゴを持参して、肉や魚は経木(きょうぎ)で包み、紙の袋で量り売りが当たり前でした。新聞紙に包んだりもしていましたし、今のように、何でもプラスティックの袋に入れるなんてことはありませんでした。

でも高度経済成長期から、そんな日本人の「自然と共に生きる生活」が投げ捨てられるようになりました。アメリカ的な生活は便利かもしれないけれど、やはり違和感があります。人間も動物ですからね。

 

田辺さんの美意識、そして現場で実際に見聞きしてきた課題意識。偶然の出会いを逃さず、その場で緒方さんにデザインを託した直感力と行動力。それらすべてが、サステナブルで美しい器「WASARA」を形づくる原動力となっていたことが、今回のお話から浮かび上がってきました。

Vol.3では、いよいよ「WASARA」完成までのストーリーをお届けします。そして、プロダクトに命を吹き込むクリエイターを支え、新しい価値を生み出す田辺さんの「仕事観」についても、うかがっていきます。

→Vol.3はこちら

 

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