夏の間じゅう、お隣さんが野菜をくれた。
お隣さんは、厳密には今は空き家。もう少し都市部で暮らしているのだけれど、おじさんが、畑仕事と鶏の世話をしに、ほぼ毎朝、仕事の前にやってくる。私が起きて、庭のベンチでひなたぼっこをしていると、エンジンがかかる音がして帰っていく。私はまだ、起きたばかりでムニャムニャしているというのに、おじさんは、もうひと仕事終わったところで、さらに、これから会社に出勤するのである。私には到底できないことで、だから、とっても尊敬している。
おじさんのおかげで、今年はナスとピーマンとじゃがいもは、1度もストックが切れることがなかった。なくなる頃になると、袋いっぱいに持ってきてくれるからだ。たまに、トマトやインゲン、きゅうりやししとうも入っている。私がいないときは玄関に袋がドンと置いてある。いつぞやは天ぷらにして持ってきてくれたこともあった。おじさんは、料理までも得意なのだった。
基本もらってばかりではあるのだけれど、あんまりもらうとお返ししたくなるのが、人の常だ。親戚からたくさん届いたおいしいお蕎麦や、取材で行った酒蔵の日本酒など、何かあげられるものが出てくると、お渡しした。
すると、また野菜が届くのである。
田舎の暮らしは、これが当たり前だ。いつも、誰かが気にかけ、世話をし、ときには助けてくれる。
以前に住んでいた、もう少し駅に近いお家のときもそうだった。そこは、藤野のなかでもかなりの住宅街だったのだけれど、ご近所がとても仲が良くて、しょっちゅういろいろなものをいただいた。ひとり暮らしの私の食生活を心配してか、おかずのおすそ分けをいただくこともあった。
そしてもちろん、いただいたら、私も何かお返しをしたいと思ってしまうのだ。けれど、そうするとまたそのお返しにと、何かが届いてしまう。4回ぐらいラリーが続くと、どちらからともなく「おすそ分けが終わらないですねぇ」と笑い合う。本当に、ちっとも終わらないのだ。
おすそ分けというのは、贈り物とはちょっと違う。食べきれないものだったり、ちょっとしたお土産を、近しい人たちに分けているだけ。無理のない範囲で、よければどうぞという「ほんの気持ち」として届けているだけだ。
おすそ分けで贈り合うのは、物だ。しかし、そこにはふわっと流れる風のような、心地よい気持ちのやりとりがある。目を閉じないと気づかないほどの「ほんの気持ち」の贈り合い。そういう「気持ち」を、具体的な「物」として形に表すのが、おすそ分けなのだと思う。小さな感謝の積み重ねが、近しい人々とのつながりをつくってくれている。
何かをあげる、あるいは何かをしてあげるということを、このまちの人は厭わない。たとえ見返りを求めていなくても、それがやがて自分に返ってくることを、経験としてわかっているのではないかと思う。
下手したら、おすそ分けだけで生きられるな、とたまに思う。それは、とてつもない安心感だ。