
「祖母の味」と「母の味」。二人を育んだ食卓の記憶
ベトナムを中心に、世界に40店舗以上。ニューヨークへの出店も控えるピッツァレストラン「Pizza 4P’s」の創業者である益子陽介さんと高杉早苗さん。バリバリの経営者かと思いきや、飲食経営の経験はゼロ。お二人はIT企業時代の同僚でパートナーでした。
手作りのピッツァ窯をキッカケに、ピッツァを囲むという行為がもたらす価値を日々模索し続けています。
−−本日は宜しくお願いします!まずは、現在のPizza 4P’sにつながる原点を探るべく、高杉さん、益子さんが小さい頃どんなお子さんだったのか。その生い立ちを伺いながら、今日までのルーツを辿っていけたらと思います。
高杉さん:私は神奈川県の横浜育ちです。一時期、親の仕事の都合で離れたこともありましたが、最終的には横浜へ戻り、それからずっとこの街で暮らしていました。
小さい頃から食べることが大好きで、中でも祖母の料理が大好きだったんです。我が家は両親が共働きだったので、晩ごはんはいつも祖母が作ってくれていました。今振り返ると、食にまつわる原体験は、その頃の食卓にあったのかもしれません。
一方で、当時から食の仕事を目指していたわけではありません。大学ではメディア系の勉強をしていて、将来はテレビやインターネットなど、メディアに関わる仕事がしたいと考えていました。そのため、外食業の経験といえばハンバーガー店でアルバイトをしていた程度で、ほとんど無かったんです。
−−今のお話を伺っていると、高杉さんにとって「食」はとても身近な存在だったのですね。特に大好きだったという、お祖母様のお料理の中で印象に残っている晩ごはんはありますか?
高杉さん:鶏肉の炊き込みご飯ですね!最初に野菜やキノコで筑前煮みたいなものを仕込んで、それをご飯と混ぜて作るんです。あと、季節になると僅かですが裏庭で「ふきのとう」が採れたので、それを天ぷらにしてくれたりしていました。
そういう、特別な料理じゃないけれど、常に身近に“おばあちゃんの味”があったなあと思います。
−−お祖母様の料理が、高杉さんの食の原体験になっているのですね。一方で、横浜は中華街をはじめ外食文化も身近な街だと思います。ご家族で外食に出かけることもあったのでしょうか?
高杉さん:外食はあまりなかったですね。祖母と暮らしていたこともあって、普段は家で食卓を囲むのが当たり前でした。だから私にとって外食は、誕生日や記念日などの“ハレの日”のイメージだったんです。おいしいものを食べるというより、家族みんなで「特別な時間」を過ごす、イベントのような感覚だった気がします。

−−なるほど。高杉さんは家族で食卓を囲む時間が日常の中心だったのですね。では、益子さんはいかがでしたか?
益子さん:僕の家は、父がとても忙しくてあまり家にいなかったので、外食比率は高かったかもしれません。だから僕の中では外食=家族で一緒に集まる場、という印象はありました。
僕も生まれは横浜なんですけど、1歳頃かな、両親が「土」と一緒に生活できるところで息子を育てたいということで、練馬区へ引っ越しました。そこは周り一面、畑だったんですよ。
お風呂の窓の外からはいつもコオロギの鳴き声が聞こえたり、寝室の外壁にはスズメが巣を作っていたりしていました。自然の中で石を探したり、森を探検したりして遊んでいたんです。
でも、そうした記憶をはっきり思い出したのは、実は大人になってからでした。都会育ちだと思っていたけれど、自分が思っていた以上に自然が身近にある環境で育っていたんだなと。
一方で、母は料理上手な人でした。僕の舌は母の料理で鍛えられている部分もあると思います。オーソドックスですが、餃子とか肉じゃがとか好きなものを作ってくれました。
そういえば、高校の頃、母が結構大きな牛肉弁当を作ってくれて、ランチの時間に食べようと思ったら半分無くなっていたことがあるんです。犯人は、友達でした(笑)。あまりにおいしそうで、食べちゃったそうです。当時はそんなお弁当を持ってくる人も珍しかったみたいです。
−−確かに、同級生だったら食べたくなってしまいますね(笑)。
益子さん:そんな僕ですが、大学生時代からヨガに傾倒し、完全なベジタリアンになったこともあります。肉や魚は食べないようにしていました。が、仕事先でカニを扱わなくてはいけない案件があり、魚介だけは食べるようになり……。その後、高杉がおいしそうに食べる姿を見て、肉も再び食べるようになりました!
高杉さん:いや、私も無理に食べさせるつもりはなかったんですけど、「こんなおいしいもの我慢する必要ないじゃん!」と思っていたんです。やっぱり、我慢は良くないですから(笑)。

すべてはピッツァ窯から、始まった
−−ここからお二人の出会いについても少し伺えればと思います。お二人の出会いは、独立されるまで勤めていたIT企業のサイバーエージェントですか?
高杉さん:はい、私が新卒で入社した同時期に、中途採用で益子が入ってきました。
益子さん:実は、大学に7年間くらい在籍し、研究や留学などをした後、そろそろ就職しようと思ったらなかなか決まらず……。2年間で100社近くも落ちてしまったんです。
もう藁にもすがる思いで人材派遣会社に紹介してもらうという粗技で、ようやく社員12人規模の商社に入社することができ、その後にサイバーエージェントへ転職しました。
当時はFXや金融のデジタル広告案件を多く手掛けていたこともあり、先輩として高杉に教えたりしていたのですが、気づいたら、クライアントには仕事ができる高杉の方が気に入られていましたね。
−−なるほど(笑)。そういう出会いだったんですね。でも当時はお二人ともIT業界ですよね。食の道へ進むことになった最初のキッカケは何だったのでしょうか?
益子さん:振り返ると色々な出来事が重なっているのですが、最初のキッカケは手作りのピッツァ窯でした。当時お付き合いしていた彼女に頼まれて、ピッツァ窯を作ったんです。
高杉さん:私じゃないんかーい(笑)。
益子さん:(笑)。友達にも手伝ってもらいながら半年ほどかけて作ったんですけど、その窯で焼いたピッツァが本当においしくて、それが最初のキッカケですね。

−−苦労して作ったピッツァ窯で焼いた、その日のピッツァ。今振り返っても、益子さんにとって特別な1日だったのでしょうか?
益子さん:はい、すごく印象的な1日でした。実はあの体験以外にも、食に関して強く記憶に残っている出来事がいくつかあるんです。
例えばヨガにのめり込んでいた時期に、断食後初めて食べたトマトの衝撃的なおいしさだったり、オーストラリア留学時にカンガルーを食材として目の当たりにした経験だったり。
−−え、カンガルーですか!?
益子さん:そうなんです。オーストラリアでカンガルーハンティングに連れて行っていってもらったことがあって、自然の中で生きていたカンガルーの親子が目の前で殺されるのを見ました。その翌日、スーパーでパック詰めの精肉として普通に売られているカンガルーを見て、生命とはこういうものなのか、という衝撃が強烈に残っていて……。
ヨガにのめり込んでいた頃に、断食後初めて食べたトマトのおいしさもそうでしたが、食に関してはそうした鮮烈な記憶がいくつかあるんです。そんな経験が積み重なって、「食べる」ということについて深く考えるようになりました。
だから、食で何かをやりたいな、携わっていきたいなという想いは、ずっとどこかにあったのだと思います。

高杉さん:実は、私たちがデートで初めて観た映画が、食の映画だったんです。『いのちの食べ方』という無声映画で、セリフは一切ないのですが、屠殺のシーンなどもあり、とても衝撃を受けました。
その頃は、一緒に味噌づくり教室へ参加したり、千葉のマクロビを実践している施設を訪ねたりすることもありました。二人とも食べることが好きだったので、自然とそういった場所へ足を運ぶようになっていたんです。
益子さん:実は僕は大学の時に大切な友人を亡くしてしまっていて、そこからどこか自分を責めるような形で生きてきました。
でも、ピッツァ窯を作ったことで状況が少し変わったんです。ピッツァをキッカケに人に喜んでもらえることが嬉しくて、仕事をしながら有給を使って準備をし、仲間を呼んでピッツァパーティーを開くようになりました。
そうして回を重ねるうちに、地域の方々からも「またやってほしい」と声をかけていただくようになったんです。毎週ではありませんが、イベントを企画したり、子どもたちが参加するピッツァ教室を開いたりすることもありました。
自分がやったことで誰かが喜んでくれる。その積み重ねの中で、存在価値が上がるというか、自分自身を認められるような感覚を初めて味わった気がします。
そんな中で、窯作りに参加したのがきっかけでピッツァ職人になった吉川貴朗君(後の4P’s料理責任者)と一緒に店を作ろうと決意。起業することになりました。

ピッツァは、食のダイバーシティ
−−手作りのピッツァ窯から始まった4P’sですが、その頃から、ピッツァそのものというよりも、人が集い、関係性が生まれる時間や場づくりに魅力を感じていたのでしょうか?
益子さん:そうですね。
ピッツァの魅力って、食材さえあれば一枚の生地の上で自由自在な表現ができる。さらに、複数の人たちで一斉にシェアできて、リアルタイムでおいしさを共感し合えることだと思うんです。それは、日本の食卓に並ぶ大皿料理にも通じるような、インクルーシブな特徴です。いわば、食のダイバーシティですね。
僕たちが開いていた会でも、参加者が野菜を持ち寄ってくれたり、その野菜を育てた生産者の方が一緒に参加してくれたりしていました。
そうして集まった人たちと食卓を囲むと、食材の背景にあるストーリーまで自然と共有されていくんです。僕たちにとっては、ただ食べるだけではない「体験そのものを分かち合うような時間」でした。
気づくとそこには、ピッツァを起点に全てが繋がっていくような一体感が生まれていたんです。回を重ねるうちに、作る人や支える人への敬意はもちろん、本当の意味で「自分は生きている、生かされている」という感謝が芽生えていく気がしました。
僕自身、ピッツァが生み出す縁によって救われたんです。
元々いつかは起業したいという目標はありましたが、この体験をキッカケに、食を生業としてライフワークにしていきたい、今度は自分がピッツァを通して誰かを笑顔にしたい、と思うようになりました。

−−「ピッツァが生み出す縁によって救われた」というお話が印象的でした。その頃の益子さんは、人との関わり方も今とは少し違っていたのでしょうか?
益子さん:うーん……限られていたのかなとは思います。ちょうどその頃はさっきも言ったように悲観的な状態というか、内にこもる、みたいな部分はあったのかもしれないです。
ーー高杉さんから見て、当時のピッツァパーティーにはどんな魅力があったのでしょうか。
高杉さん:「ピッツァで人とつながることって、こんなにも大人を子どもみたいにするんだ!」と感じていました。益子と付き合い始めた時、彼は吉川さんも含めた昔の友達と3〜4人でシェアハウスに住んでいたんです。その頃、互いに人を呼び合ってピッツァパーティをしていたんですけど、面識のない「はじめまして」の人同士が集まっても、「ピッツァを作る」という共同作業をこなすうちに自然と関係が深まっているのが不思議でした。
社会人になると、人と密に集まる機会も少なくなっていくと思うんです。そんな中、生地を捏ねたり伸ばしたりしながら、小さい頃に泥遊びをして遊ぶような感覚で無邪気に誰かと繋がっていく。気づくと子ども同士みたいにその日中に仲良くなるというのが、すごく新鮮だったんです。
後はもう純粋に、「焼き立てのピッツァっておいしい!」という感動もありました!素人の私たちでも、生地に好きな具材をのせて窯に入れるだけで数分で焼き上がって、感動するほどおいしくなる。それもまた、私にとっては今までにない体験でした。
益子さん:火が見える窯で調理するという行為には、人間の原始的な感覚を呼び起こすような魅力があると思うんです。さらに、生地が発酵して変化していく過程にも不思議とワクワクする。そうした体験も含めて、その頃からピッツァの可能性に取り憑かれていましたね(笑)。

何故ベトナムだったのか
−−そうして4P’sを立ち上げることになるわけですが、なぜ日本ではなくベトナムで起業することになったのでしょうか?
益子さん:最初は、日本でやるという選択肢もありました。
ただ、僕たちは飲食店経営の経験がなかったので、お店を持つことには大きなハードルを感じていたんです。資金面の不安もありましたし、キッチンカーで移動販売をする案も出ていました。
そんな中、サイバーエージェントの新規事業でベトナムへ赴任することになりました。実際に現地で働き始めると、周りの環境がとても心地よくて、「ここには何か可能性があるかもしれない」と感じたんです。
当時、自分たちの手元には貯金が1,000万円ほどがありました。その資金とベトナムという国のポテンシャルを踏まえて、「ベトナムでやってみないか」と、日本で出産・子育てをしていた高杉に相談しました。
−−なるほど!とはいえ、日本ではなくベトナムを選ぶというのは大きな決断だったと思います。お二人の中では、比較的スムーズに決まったのでしょうか?
高杉さん:最初からベトナムに決めていたわけではありませんでした。一度いろいろな国を見てみようということになって、益子が退職したタイミングで世界を回ったんです。最終目的地はピッツァの本場であるナポリ。そこに向かう途中で、シンガポールやタイなどアジア各国からヨーロッパまで、いくつもの土地を見て回りました。そうして様々な地域を比較した上で、最終的に「やっぱりベトナムがいいね」という結論になったんです。

−−様々な国を見た中で、それでもお二人が「やっぱりベトナムだ」と感じた決め手は何だったのでしょうか?
益子さん:まず、高い熱量を感じました。当時(2010年頃)のベトナムは人口約9,000万人、平均年齢も28歳と非常に若く、国全体がエネルギーに満ち溢れていたんです。
実際、豊富な労働力を持つ成長市場として世界中から注目を集めていましたし、私たち日本人にとっても暮らしやすい環境でした。
でも、僕たちが一番惹かれたのは、人と人との距離の近さだったかもしれません。
子どもたちが近所の家に当たり前のように遊びに行ったり、地域全体で見守られていたり。どこか日本の「昭和」を思わせるような温かい空気があったんです。
高杉さん:そう、まさに昭和の距離感だったよね。地域で子どもを受け入れてくれる懐があり、一緒に育ててくれる空気感がある。みんな子どもが大好きなんです。
益子さん:ベトナムはバインミーなどのパン文化が根付いていたこともあって、ピッツァを受け入れてもらいやすい土壌はあったと思います。でも、何より惹かれたのは人同士の距離感から感じる居心地の良さでした。ここなら、自分たちが思い描く「場」を作れるかもしれない。そんな感覚があったんです。
−−なるほど。お二人がベトナムに惹かれた理由が少し分かった気がします。
こうしてお二人はベトナムへ移住し、「Pizza 4P’s」の歴史が始まります。慣れない土地で試行錯誤する中で、「人が集まり笑い合える場」をつくりたいという想いは、少しずつ“レストラン”という枠を越えて広がっていきました。
次回のVol.2では、ベトナムでの店づくりから東京進出へ。東京店で始まったメニューブックや生産地視察ツアーなどの試みを伺いながら、4P’sが目指す“場”のあり方をさらに紐解いていきます。
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