
長野に生まれ、群馬で育った野球少年
編集部:まずは米山さんのことを知るところから始めたいのですが、ご出身はどちらなんですか?
米山孝生さん(以下、米山さん):生まれは長野なんですよ。南信の駒ヶ根です。親の実家も長野で、中川村という養命酒のふるさととして知られている地域です。ただ、駒ヶ根にいたのは4、5歳くらいまでで、その後は群馬に引っ越して、昭和村というところで育ちました。
編集部:そうなんですね。群馬で過ごした子ども時代は、どんなことをしていたんですか?
米山さん:野球ですね。ずっとやっていました。当時の男の子なので、「野球選手になりたい」みたいなことは考えていましたよ。もちろん、本当になれると思っていたわけではないですけど(笑)。
編集部:野球に打ち込んでいた少年時代を経て、東京に出てきたのはいつ頃だったんですか?
米山さん:就職したときですね。東急に入社するタイミングで東京に出てきました。
編集部:そうだったんですね。もともと鉄道の仕事をしたいという思いがあったんですか?
米山さん:いや、鉄道が実は好きだったわけではないんですよ。興味があるかないかで言ったら、なかった方かもしれないですね(笑)。当時は今よりも安定志向が強い時代でしたし、その中で選んだのが東急だった、というくらいです。運転士になりたいという気持ちがあったわけでもないんです。
編集部:群馬を離れて東京で働くことには、当時どんな感覚がありましたか?
米山さん:どうだったかな。当時は今みたいに、いろいろな職業や働き方が見える時代でもなかったですからね。
地方にいると「仕事がない」と言われることもありますけど、本当にないというより、何を目指すかによって選択肢の見え方が違うんだと思います。
一度地元を離れて都会へ出ると、そのままそこで暮らす人も多かった。高校や大学、仕事をきっかけに外へ出てしまうと、そっちで新しい生活が始まりますからね。今とは、地方と都会の距離感もずいぶん違ったと思います。

同じ会社にいながら、まるで転職するように
編集部:そうして東急に入社されてからは、どんな仕事を経験されてきたんですか?
米山さん:最初は鉄道ですね。その後はリゾート事業でゴルフ場に行って、それから商業施設にも携わりました。給料が出ている会社は同じなんですけど、やっている仕事は全然違うんですよね。
編集部:本当に、ひとつの会社にいながら転職を重ねているようなキャリアですね。
米山さん:そうですね。東急はいろいろな部門があるので、声をかけてもらったり、それまで自分が持っていた経験やスキルを生かせそうな場所があったりすると、また違う仕事を経験することができる。そういう意味では、いろいろなことを経験させてもらったと思います。
編集部:そうしたさまざまな経験の中で、今の米山さんの仕事の仕方につながっていると感じるものはありますか?
米山さん:何だろうな……。もしかしたら、大阪にいた時かもしれないですね。
「東急」の名刺だけでは商売ができなかった大阪
ゴルフ場の運営を担当していた頃、米山さんは大阪の企業を回る営業の仕事にも携わっていました。そこで、関東にいた頃とは少し違う感覚を覚えたといいます。
米山さん:大阪の企業を回っていたんですけど、そこで一番感じたのは、「東急って、何をやっている会社なの?」という反応だったんです。
関東にいると、東急はみんな知っているような感覚がありますよね。でも関西で、鉄道があって、ホテルがあって、百貨店があって……と説明すると、「なんや、阪急さんみたいやな」って言われる(笑)。
編集部:しかも「阪急“さん”」で、「東急」は呼び捨てなんですね(笑)。
米山さん:そうそう(笑)。「真似したらあかんよ」なんて言われたりして。
そこで思ったんですよね。関東ではある意味、会社の名刺で商売ができていた。でも関西では、それだけではなかなか懐に入れない。営業の仕方が全然違うんだなって。
編集部:会社の名前だけではなかなか通用しない中で、営業するときに意識することも変わっていったんですか?
米山さん:そうですね。名刺を交換したら、そこからは立場が上とか下とかは関係ない。一対一で、自分をどう信用してもらうのか。そのために何をするのかを考えるようになりました。
編集部:ゴルフ場の営業では、具体的にどんなことを考えていたんですか?
米山さん:ゴルフ場もたくさんありますから、「うちに来てください」と言うだけでは選んでもらえないんですよ。
来てもらうために何を知ってもらうのか。実際に来てもらったら、どうしたら気持ちよく帰ってもらえるのか。そういうことを考えながら、一人ひとりとの関係をつくっていった感じですね。

「苦労」ではなく、一つの学習
編集部:相手によって、距離の縮め方を考えていったんですね。
米山さん:図々しくね(笑)。
編集部:いやいや(笑)。でも、最初は苦労も多かったんじゃないですか?
米山さん:めちゃめちゃ苦労しましたね(笑)。……と言いたいところですけど、実はあんまり苦労したと思っていないんですよ。
編集部:そうなんですか?
米山さん:苦労って何なんだろうなと思うんですよね。
何回チャレンジしてもうまくいかなかったとしても、最後に相手がこっちを向いてくれた瞬間があれば、それまでやってきたことは苦労じゃなくなるかもしれない。
人によって接し方は違うから、うまくいかなければやり方や入り方を変えてみる。その都度考えていくことは、苦労というより一つの学習なのかもしれません。
編集部:そうした感覚は、関東にいた頃とは違うものでしたか?
米山さん:関東にいただけでは分からなかったことだったと思います。相手のことを知ろうとすると、仕事の話だけをしていても分からないことってありますよね。だから相手のホームグラウンドに入っていったり、一緒に食べたり飲んだりする。
そういう時間の中で、仕事の場だけでは聞けなかった話を聞けることもありました。
「何をやっているか分からない」場所へ
大阪での経験を経て、その後は商業施設の運営など、さらにさまざまな仕事に携わった米山さん。
QWSへ来る直前には、イタリア・ミラノ発のカフェ「COVA」の店舗立ち上げにも関わりました。米山さんが主に担当したのはGINZA SIXの店舗。自ら内装を設計するのではなく、部材やレイアウトなど、開業に向けたさまざまな調整を担っていました。
そして米山さんは55歳の時、社内公募でいくつかの募集を目にします。そのひとつが「SHIBUYA QWS」でした。
編集部:いくつかの募集がある中で、なぜQWSに手を挙げたんですか?
米山さん:商業施設の運営だったら、「こういう仕事だろうな」と想像できますよね。他の仕事も、調べれば何となく分かる。
でも、QWSだけは、どんな仕事をする場所なのかイメージが湧かなかったんです。
編集部:それが、逆に気になったんですか?
米山さん:そうですね。何をやっているのか分からないから、面白いんじゃないかって(笑)。定年間近のおやじが手を挙げるようなところじゃなかったのかもしれないですけど、分からないなら行ってみた方が面白いじゃないですか。
2020年10月、米山さんはQWSに着任します。
ところがその頃は、新型コロナウイルスの影響で、人が集まることそのものが難しくなっていた時期でした。
編集部:実際にQWSへ来てみて、当時はどんな状況だったんですか?
米山さん:まさにコロナの真っただ中でしたからね。
今みたいに役割が細かく分かれていたわけでもなくて、「この状況をどうやって乗り切ろうか」と、みんな同じような仕事をしていました。僕も法人の窓口みたいな役割はありましたけど、それだけではなくて、ある意味「何でも屋」みたいな感じでしたね。
編集部:利用する方も、今とはかなり違ったんですか?
米山さん:全然違いましたね。今はたくさんの方が来ていますけど、僕が来た頃は、平日でも10人とか20人くらい。土日なんて、ほとんど人がいないような時もありました。
イベントもほとんどが無観客で、オンライン配信が中心。
「何をやっているのか分からないから、面白い」。
そう思って飛び込んだ先で待っていたのは、人と人が集まることそのものが難しい時期のQWSでした。
その場所で、米山さんはどのように人との関係をつくっていったのでしょうか。
その話を伺っていくと、大阪時代にも登場した「食」が、米山さんにとって大切なコミュニケーションのひとつであることが見えてきました。
次回は、子どもの頃に食べたお母さんの手づくりこんにゃくや五平餅の記憶から、大阪で人との距離を縮めていった食卓の時間まで。
米山さんが語った「食に勝るコミュニケーションのツールはない」という言葉を手がかりに、米山さんにとっての「食と人とのつながり」を伺います。
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米山 孝生 profile
SHIBUYA QWS コミュニティマネージャー。東京急行電鉄株式会社(現・東急株式会社)入社後、鉄道事業、リゾート事業、リテール事業などを経験。2020年10月より渋谷スクランブルスクエア株式会社へ出向し、SHIBUYA QWSの運営に携わる。現在は企業、自治体、大学、スタートアップ、クリエイターなど、多様な人や組織をつなぎながら、新たな共創が生まれる場づくりに取り組んでいる。
– Information –
SHIBUYA QWS