2019.03.26. | 

[第5回]藤野のお山の食まわり:昔、藤野には自然食品店があった

移住者があとを絶たない神奈川県の山あいのまち、旧藤野町。12年前に移住し、現在は山奥の古民家に暮らすライター・平川まんぼうが、藤野での、食にまつわる日々を綴ります。

12年前、私が藤野へ、家を探しにきたその日に立ち寄ったイタリアンレストランがあった。当時は、若い女性がひとりで移住してくることは珍しく、オーナーのしみづさんにはとても驚かれた。そして満面の笑顔で「藤野は最高! おすすめ!」と熱く語られたのだった。その笑顔に確信を強め、私は直後に物件を決めて、3週間後には駅に近いアパートに引っ越したのだ。

引っ越したその夜、報告をしようと、レストランまでごはんを食べに行った。まだ運転免許をもっておらず、アップダウンの激しい山道を、今では絶対に履かないロングブーツで歩いていった。

息をきらしてドアを開け「引っ越してきました!」と言うと「えー! もう引っ越してきたの!」と爆笑していた。初めて会った日から1ヶ月も経っていないのだから、それはまぁ驚くかもしれない。そして、その場にいたほかのテーブルのお客さんに、次々に私を紹介してくれた。「今日引っ越してきたんだって! 知り合いいないみたいだから、よろしくね!」。今では当たり前のこんなおせっかいな光景も、都会から引っ越してきた私には新鮮だった。新しく始まる暮らしにワクワクした。

何年か経ち、レストランは、お客さんからのリクエストで自然食品を置くようになった。

移住してきた人には、食にこだわっている人も多い。私も、都内に出たついでに自然食品店に寄ったり、通販でオーガニックの食材を買ったりしていたから、自然食品を置くと言われて、飛び上がって喜んだ。

同じ気持ちの人は多かったようだ。徐々に「本格的に自然食品店をやってほしい」という声が大きくなる。しみづさんはレストランを縮小し、自然食品の販売をメインでやっていくことにした。

とはいえ、レストランにしろ商店にしろ、小さなまちで商売するのはとても大変なこと。少しでも稼ぐために、定休日はなし。「でも1日も休めないのはさすがにきついから、週1回だけ店番を手伝ってくれないか、ボランティアで(笑)」と頼まれ、私は少しの謝礼と商品の割引とで、お店を手伝うことにした。仕事が忙しくなって1年ほどでやめてしまったが、いろいろな(私のように自由な)若者が、代わる代わるお店を手伝った。

その後、駅前に店舗を移転して頑張っていたが、やはり経営は苦しかったようだ。もう無理かも、と毎年のように聞いていたが、4年前、いよいよ店を閉めることにしたと言われた。困る、本当に困ると思った。「じゃあもっと買いにこいよ!」と笑って言われた。

閉店が決まったあと、うちで、しみづさんお疲れさま会をやった。期せずして、歴代アルバイトがほぼ全員集まった。写真はそのときの、しみづさんと歴代アルバイトの集合写真だ。悔しがる私たちを尻目に、しみづさんは相変わらずの満面の笑みでこう言った。

「でもいいんだ! めちゃくちゃ楽しかったから!」

一見軽そうで、面倒くさいところもあるけれど(笑)、働いていた私たちは知っていた。じつはめちゃくちゃ働き者で、めちゃくちゃ頑張っていたことを。毎朝5時に起きて倉庫まで商品を受け取りに行き、夜まで店にいる。休みはほぼない。そして儲からない。でも、いつも笑って仕事をしていた。

しみづさんは、藤野が大好きだった。だから、その藤野でしみづさんがなりわいとして自然食品店を続けられなかったことは、私たち住民にとってのひとつの問いなのだと、今でも思っている。地域内で経済を成り立たせることの難しさ。それは、買う側の意識や思いにも、強くかかわっているのだと思う。

しみづさんは、シェフの仕事を再開した。大好きだった藤野は出てしまったが、今でもよく遊びにくる。相変わらずちょっと面倒くさいが、相変わらず、最高の笑顔だ。

 

ライター / 平川 友紀

リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター/文筆家。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。その多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、現在はまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。通称「まんぼう」。

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