
子どもの頃に経験した、苦しかった時間
小野:まずは影山さんご自身のお話から聞かせてください。今やられていることの原点ってどこにあるんだろうと気になっていて。小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
影山さん:そうですね。どこから話そうかなという感じなんですが、小学校時代からお話すると、僕は生まれは国分寺なんですけど、小学校の途中で愛知県の岡崎市に引っ越したんです。転校生として過ごす中で、いじめられていた時期がありました。
小野:そうだったんですね。今の影山さんからはあまり想像していなかったので、少し意外でした。
影山さん:三年生の途中から五年生くらいまでだったと思います。もちろん理由があったような、なかったような話なんですけど、クラスにいたガキ大将みたいな子に目をつけられてしまったんですよね。周りの子たちとの関係が全部悪かったわけではないんです。だから、いじめの中ではまだマシな方だったのかもしれません。
でも、小学三年生とか四年生って、自分の世界のほとんどが学校じゃないですか。
だから当時は本当に学校へ行きたくなかったですし、とにかく早く卒業したいと思っていました。その子と別の学校へ行きたかったんです。当時はもちろんつらかったですし、その経験を美化するつもりもありません。でも今振り返ると、その経験が今の自分につながっている部分もある気がするんです。悲しい思いをした分だけ、人を悲しませたくないと思うようになったというか。
小野:なるほど。今のお話を聞いていて、後から振り返ると苦しかった経験ほど、その人の価値観の根っこになっていることってありますよね、すごく共感します。
実は、僕も子どもの頃はいじめられるというか、“いじられる”ことが多かったんです。当時はそこまで深刻に受け止めていたわけではないんですが、今振り返ると、それなりにつらかったんだろうなと思います。だからこそ、人を傷つけたり、人に痛みを与えたりすることには敏感になった気がします。
今のお話を聞いていて、人との関係性を大切にされている影山さんの原点が少し見えた気がしました。
影山さん:そうかもしれませんね。今カフェをやっていると、自分をうまく発揮できない人や、社会に馴染みにくさを抱えている人と出会うことがあります。もちろん同じ経験ではありません。でも、そういう人たちの気持ちにどこか共感できる自分がいるんです。
当時はまったく想像していませんでしたけど、あの頃の経験が今の自分の土台になっている部分はあるのかもしれません。

生まれ育った国分寺の風景
小野:ちなみに、東京へ戻って来られたのはいつ頃だったんですか?
影山さん:大学生になってからですね。高校を卒業するまでは、岡崎で過ごしていました。
小野:そうなんですね。国分寺の印象が強かったので、少し意外でした。
影山さん:そうですよね。ただ、本当にルーツを辿ると、生まれ育った国分寺での記憶が大きい気がしています。
当時は、近所の人たちとの距離が今よりもずっと近かったんです。親同士もつながっていましたし、子どもたちのことを地域全体で見ているような空気がありました。
うちは両親が共働きだったので、学校から帰って親が家にいない時には、近所のお宅に行くことも普通でした。二軒隣のお宅でピアノを教えてもらったこともありましたね。
小野:今の暮らしの中では、そういったコミュニケーションのあり方はかなり少なくなっていますよね。
影山さん:そうですよね。でも当時は、それが特別なことだとは思っていなかったんです。近所の大人に面倒を見てもらうこともあれば、時には叱られることもあります。子どもだった僕にとっては、それが地域のコミュニティだなんて考えたこともありませんでした。ただの日常だったんです。
でも大人になって振り返ると、あれはすごく豊かな環境だったんだなと思います。
小野:今は「コミュニティをつくろう」と言葉にして取り組むことも多いですけど、当時は“つくろう”という意図で人がつながっていたわけではないですもんね。もっと自然なことだった。
影山さん:そうですね。つくるものではなくて、そこにあるものだったんです。だから子どもの頃の僕にとっては、それが当たり前でした。

失われていた、近所付き合い
小野:大学生になって国分寺へ戻られた時には、街のコミュニケーションのあり方に変化はありましたか?
影山さん:かなり変わっていましたね。もちろん街そのものが大きく変わったわけではないんです。でも、人と人との関係性はずいぶん変わっていました。
子どもの頃は、近所の人たちの顔も自然とわかっていましたし、誰がどこに住んでいるのかも当たり前のように知っていました。でも戻ってきた頃には、そういう関係性がかなり薄くなっていたんです。
もちろん暮らし方も時代も変わっていますから、昔に戻ればいいという話ではありません。ただ、隣に誰が住んでいるのかわからないとか、防犯のために常に気を張っていなければならないとか、人とのつながりよりも距離を取ることが当たり前になっていることに対して、どこか寂しさのようなものを感じていました。
小野:便利になったこともたくさんありますが、少し寂しさもありますね。
影山さん:そうなんです。でも、誤解してほしくないんですが、昔に戻りたいという話ではないんです。便利になったこともたくさんありますし、今の暮らしの良さももちろんあると思っています。
ただ、子どもの頃は、誰かに助けてもらったり、逆に誰かを助けたりすることが、特別なことではなく日常の中にあったんですよね。困った時には自然と誰かが手を差し伸べてくれるし、自分も誰かのために動く。そういう関係性が、意識しなくてもそこにありました。
でも大学生になって国分寺へ戻ってきた時には、そうした風景が少しずつ見えにくくなっていたんです。もちろん今も人とのつながりはあるでしょう。でも、昔は当たり前だったはずのものが、いつの間にか特別なものになってしまったような感覚があったんですよね。
だから寂しいというよりも、「あれ、いつの間にこうなったんだろう」という違和感に近かったのかもしれません。その違和感が、後に自分が始めることになる活動の原点になっていった気がします。
小野:その違和感はすごく興味深いですね。便利になったこともたくさんありますし、人との距離感も変わっています。でも影山さんの場合は、その変化をただ受け入れるのではなく、「何かできないだろうか」という方向に向かったのかなと。そこがすごく印象的です。
影山さん:当時はそこまで明確ではなかったんですけど、「こういう関係性があったらいいな」という感覚はずっとあったんだと思います。誰かと強く結びつくわけではないけど、困った時には助けてもらえるし、自分も誰かを助けられる。イメージとしては、そういう緩やかなつながりですね。

「街の縁側」をつくりたかった
小野:大学生になって国分寺へ戻られて、街の変化や人との関係性の変化に違和感を覚えた。その感覚は、その後どのように今の活動につながっていったんでしょうか。
影山さん:すぐに何か行動を起こしたわけではないんです。ただ、「子どもの頃に当たり前だったものは何だったんだろう」と考えることは増えましたね。そんなことを考えていた頃に、ちょうど実家を建て替える話が出てきたんです。
それで、「どうせ建て替えるなら、ただ新しい建物をつくるだけではなくて、自分が子どもの頃に経験していたような、人と人とが自然につながれる場所をつくれないだろうか」と思うようになりました。
そこで、二階から上はシェアハウスにして、住む人同士が自然と関われる場にしたいと思いました。そして一階には、住人だけではなく地域の人も立ち寄れる場所をつくりたいと思ったんです。
小野:実家の建て替えがキッカケで、今につながっていったんですね。
影山さん:そうかもしれませんね。当時から「まちの縁側」という言葉を使うこともありました。住む人も使うし、地域の人も使う。誰かのためだけの場所ではなくて、いろんな人が自然に関われる場所ですね。
小野:影山さんが考える「まちの縁側」って、どんな場所なんでしょうか。
影山さん:難しいですね(笑)。でも、特別な場所ではないんです。何かをしに行く場所というより、「居てもいい場所」なのかもしれません。
誰かに会う約束があるわけでもないし、明確な目的があるわけでもない。でも、そこへ行けば誰かがいて、言葉を交わすことがあるかもしれない。そういう場所が、僕の思う「まちの縁側」なんだと思います。

小野:今は目的や効率が求められる場所が多いですからね。買い物をするために行く場所だったり、仕事をするために行く場所だったり、現代の街には目的を持って訪れる場所がたくさんあります。もちろんそれは大事なことなんですが、人間ってそれだけではないと思うんですよね。
影山さん:そうですよね。何かを達成しなくてもいいし、何かを生み出さなくてもいい。ただそこにいて、誰かと少し話したり、あるいは何も話さずに過ごしたりする。そういう時間にも価値がありますね。
小野:確かに、そういう時間って昔より少なくなっている気がします。
影山さん:そうなんです。子どもの頃を思い返しても、近所の人たちとの関わりは何か目的があって生まれていたわけではありませんでした。なんとなく行って、なんとなく誰かがいて、気づけば関係ができている。
でも、そういう何気ない積み重ねが、人と人とのつながりを育てていたんだと思うんです。だから振り返ると、僕がつくりたかったのは建物ではなく、人との関係性だったのかもしれません。
かつて自分が経験していたようなつながりを、現代のまち中でもう一度育むことはできないだろうか。そんな思いが、少しずつ形になっていったんです。

誰かに助けてもらったり、誰かを助けたり。特別な目的がなくても、ふらりと立ち寄れる場所があり、人と人とがゆるやかにつながっている状態。影山さんが子どもの頃に当たり前のように存在していた風景は、時代とともに少しずつ姿を変えていきました。
しかし、その記憶は消えることなく、心のどこかに残り続けていたのかもしれません。大学生になって国分寺へ戻った時に感じた違和感。そして実家の建て替えという人生の転機。
さまざまな出来事が重なりながら、「まちの縁側」のような場所をつくりたいという想いが少しずつ形になっていきます。振り返れば、影山さんがつくろうとしていたのは建物や店舗ではなく、人と人との関係性だったのかもしれません。
次回は、この「まちの縁側」という構想がどのようにクルミドコーヒーへとつながっていったのか。そして、カフェにもコーヒーにも特別な関心がなかった影山さんが、なぜカフェという場を選び、18年間育み続けてきたのか。その歩みを伺います。
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