暑い日が続いていますね。「夏バテで食欲がない……」なんて人も多いのではないでしょうか。わたしは赤しそのシロップをソーダで割ったものを飲んで、なんとか乗り切っています。美味しいのはもちろん、赤しその鮮やかな色が元気をくれるんですよねー。
さて、今回は「レシピがなくてもごはんはつくれる」というお話をしようと思います。
みなさんは料理をつくるとき、レシピを見ますか。レシピ本を購入しなくても、ネット上にはたくさんのレシピがあるし、見ているだけでたのしい動画のレシピも増えましたよね。それによって料理をする人が増えるなら、とっても良いことだなと思います。一方で、レシピありきで料理が語られることに、わずかな違和感もあります。
大学生の頃の友人で、料理の上手な男の子がいました。「小さいときから料理をしてたの?」とたずねると、「してないよ。一人暮らしになってから自分でつくるようになった。でも、どうつくればいいか、だいたいわかる」と言っていたことを覚えています。今はその子の感覚もわかるのですが、当時は料理名や完成した料理から、素材や調味料、調理方法なんて、私にはまったくわかりませんでした。
その後、少しずつ料理をするようになった私は、まずはレシピを頼りにつくるようになりました。時々上手にできたり、失敗したり。でも、レシピを頼り切ってつくったものは、失敗してもその原因がおぼろげなのです。
レシピというのは、マニュアルの一種です。標準化・体系化することで、初心者でも間違いやムダなくゴールにたどり着くためにつくられています。その分、自分で考える余地が少なくなってしまうという側面もあります。
いつの頃からか、あまりレシピを見ないで料理をつくるようになりました。それは、レシピを見なくても手順を覚えているメニューが増えたのもありますが、つくったことがない料理でも、素材と調味料、調理方法の検討がつくようになってきたからです。
自分の経験と舌を頼りに、完成形を思い浮かべて料理に臨む。素材の性質、切り方、調理方法、火加減、調味料のバランス……様々な要因をかけ合わせ、調理を進めていく。レシピを見ながらつくっているときよりもライブ感があり、作業ではなく「食べる」という人間の営みに向かう行為であることを感じさせてくれます。
と、かっこよく書きましたが、もちろん失敗することもあります(笑)。先日作った揚げトウモロコシは、衣が重たい上にボロボロとまとまりないものになってしまいました。その日の私は気持ちが散漫で、料理の完成形を明確にイメージできていなかった気がします。でも、つくる人のコンディションが反映されるのも、人間の営みとしては正しい気がします。
まったく料理をしたことがないなら、まずはレシピという航海図を元に大海へ出るのが正解でしょう。でも、最終的にどこへ向かうのかは、航海図には書かれていません。「自分は何が食べたいのか」。「大切なあの人に何を食べてもらいたいのか」。「そんな理屈を抜きに、無性に食べたくなるものもある」。そういったものと向き合って、何を食べて生きるのか、自分自身で選んでいくのです。
そういえば先日、こんなことがありました。
息子はたたききゅうりが好物なのですが、塩をしておいてあったきゅうりをつまみ食いする前に、「これ、もうごま油かけた?」と聞いてきたのです。自分の好きな料理の仕組みを理解しているんだなと感心しました。
もちろん、作り方を教えたことはありません。でも、どこかで見ているんでしょうね。家の中で調理が行われていると、家族にもその体験が蓄積されていくのかもしれません。きっと、大学生の頃、料理が上手だった友人も、親の料理を見て育ってきたのでしょう。料理は一人ひとりの生きる営みであり、世代を超えて繋がっていくものでもあるのだと感じています。
レシピに潜む、どこか他人事で作業的なものを超えて、料理が自分事であり、生きる営みとなっていく。そういう人が増えたらいいなと思い、こんなお話を書いてみました。次回は「家庭のごはんにおいて、大切だと思うこと」について書きたいと思います。
ではでは、暑い日が続きますが、自分の身体が欲するものに耳を傾けて、元気に食べて生きていきましょうね。